広島土砂災害10年 被災地域の人口1割減少 砂防ダム整備などで世帯数は増加

数問前に広島旅行をしたときに現地に行って慰霊碑を見てきた。近くでは新しい道を作ってダンプカーが行き交い砂防ダムの建設が進んでいた。
現場は国道、線路から数百m坂を登っていく。現地近くはかなり急な坂道になる。眼の前は山の斜面だが、反対側は街の景色がよく見える高台。住むには悪くない。
しかしながら、何人も命を落とす大災害が起きてしまった。
2つの考え方がある。
1. もうこんな危険なところには住みたくない。引っ越ししよう。
2. これだけの大災害でも大丈夫だったのだからここは安全だ。
特に後者では、付近に砂防ダムができて安全度が増している。
私も付近を散策してみたが新しい住宅は沢の近く、旧家やお寺は尾根の部分に立っていた。川の近くの集落でも旧家やお寺は一段高くなった土地に立っていることが多く、ボロっちい家が川の近くの低いところに立っている。
大きな街の「下町」というのも低い土地で人が住まないところに、飲み屋などの飲食店ができて徐々に街ができていったと読んだことがある。(東京のすり鉢状地形みたいな本だった)
そして、第3の考え方が「知らない」ということ。10年前の事件など知らない、知りたくもないという新しい人達。実際、大災害は100年に1度程度だから生きている間には起きないだろうし。
危険地域の人口はこうして増えていくのである。

話はズレるが、日本中に学校が沢山あるのだけど、大抵は駅から遠い不便なところにある。明治時代にできた伝統のある学校だと町中の一等地にあることも。どうしてそこそこの住宅地にある程度の広さの土地が必要な学校が建設できたのだろうか。
その1 もともと湿地、池、田んぼ
埋め立てて土地にした。普通なら建物を建てられないところに高度成長時代派手に杭打ちして建てた。
その2 もともと軍用地
対戦が終わるまでそこかしこに軍の施設があった。滑走路がある飛行場は米軍が摂取したあと自衛隊が受け継いだ。軍事工場や演習場は米軍から潰されて払い下げられた。広いところを学校にしたところは多い。
その3 徳川の土地
大政奉還のあと徳川家は解体された。点々と城や御殿が全国にあったが跡地に役所や学校を作ったところが多い。先日テレビで見たのが千葉県大多喜城、高校が建っている。
その4 刑場、墓地あと
実はこれも多い。私が昔勤務した高校の住所が「犬塚」飼っていた動物の捨て場だった。生徒が授業中に突然立ち歩いたり、奇声を上げるのは祟と言われていた。学校の怪談が多いのはこういう土地から生まれたものと考えている。