警察庁長官引責辞職

引責という言葉は使わなかったそうだが辞職したそうである。
奈良県警・鬼塚本部長が辞職というニュースも同時に報道された。
長官の方は自分より偉い人がいないので、自分でやめるというしかないわけで。こういうのにはだんどりがあって、こういうときはこうしましょうという話があるのだろう。部下のミスは上司の責任というアホな国民にはわかりやすい構図だ。
そもそも要人とはどの範囲なのか、警察がどこまで関わるべきなのか、のほうが敬語のやり方の改定よりも大切な気もするが。
奈良県警・鬼塚本部長の会見の方は悲しそうな顔だった。私が間違ってなければ本部長はキャリアの下の方の仕事、その後東京に戻って、という人生のシナリオがあるはずなのに、事件で責任を取らされて歯車が外れてしまった。それは泣きたくもなるよなあ。
さて、報道にあった辞職という言葉に引っかかった。職を辞すというのは一般的には会社をやめることだ。退職金をもらって露頭に放り出されるという認識なんだけど。
多分会社は辞めないのでしょ、だったら本部長という肩書を取るということで辞任のほうが適切かとも思える。まさかずっと下の部下の責任で会社を放り出されることはないだろう。次はどこかの副○○という肩書に降格されてほとぼりがさめたころにまた偉くなるのではないか、と勝手に推測している。

NHK大河ドラマを少し見ていた。鎌倉幕府というある意味頂点に立っている連中なんだけどあまり幸せそうではない。上に立てば立ったで自分の地位を脅かす人たちに怯えて生きなければならない。信長は部下にやられてしまった。それを知っていた秀吉は周囲は敵ばかりだと最期はだいぶおかしくなっていた。スターリンプーチン毛沢東も最期はおかしくなっている。上を目指して頑張っているときのほうが大変だけど充実感はあるのかね。教員のブラックな仕事の記事を読んだ。「すみません、ちょっと無理です」ということはタブーらしい。そんなことを行ったものなら「やらなければ不適格教員」と言われるそうだ。できない人ヤクタタズとして同僚と仲良くしていくのも辛いことだ。

先日も救急隊員がコンビニ利用のネタを書いた。どれだけ頑張っても文句を言われたり理解されないことは大いにある。給料をもらう仕事をするというのはそういうことだ。
それが嫌なら自分の才能だけに頼る仕事、芸術家やユーチューバーや職人になるしかない。
ちょっとぐらい嫌なことがあっても我慢できるくらいの好きなこと好きな仕事を選択することが大事だと若者たちに伝えたい。

そんな才能も努力もないという人は生活保護になってしまうのかね。