運命の話、その2

知床事故のニュース。自衛隊がカメラなどで捜索するのはまあ良しとしよう。問題はその次だ。船体が水深120mで発見されると、そこにダイバーを潜らせようというのである。捜索のためということだろうが水深120mである。ナントカ法という方法で深海に潜らせるという。命を助けるためでもないのにダイバーの命の危険は問わないということなのか。

次に船を引き上げるという話。それはそれで「頑張ってください」というしかないのだけど、民間会社に9億円で頼むという。当然そのお金は誰が払うのかということになる。負担するのが私達となれば「ちょっと違うんじゃないの」と思ってしまう。安全を無視して事故を起こした会社とその会社に物見遊山で遊びにいった人たちの事故の費用を国民負担というのはどうなのだろうか。
3.11といっしょで海難事故の悲しいのは流された死体が見つからない、ということである。9億円かけても見つからない。原因究明できても死者は戻ってこない。
お金の話をするなら、事故から10日、海保や海自の捜索費用、捜索に参加した漁船の費用など誰が負担しているのか。山岳事故でヘリの費用は度々問題になる。

もし私が同様の事故に遭ったとしたら、探さないでくれ、と言いたい。そのまま海の藻屑になってしまえばいいと思っている。一種の散骨だな。死体も骨もないから葬式くらいはやるだろうがお墓もいらない。どうせ私は友達もいないし親や叔父叔母も80過ぎ、子供もいないからもうすぐ嫁さん以外の親族はいなくなる。保険や慰謝料などで残された嫁さんに多少のお金が届いて、お墓の心配もないというならそれはそれで私にとってはよい運命である。
人はどう死ぬかの心配をする前にどう生きるかを考えたほうがいい。