田村正和追悼ドラマ

昨夜、松本清張の「疑惑」を見た。
最後まで見てしまった。
制作は2009年となっていた。
田村正和66歳ということである。
もちろんかっこいいのだけど、所々で老化が気になってしまった。
田村正和の辛いところはそこでほとんどが古畑を求められてしまうところ。
なかなか老化を認めてもらえないのである。
渋いおじさん役はできるはずだけどもらえない。
晩年はそれに苦しんだのではないか。
晩年のいかりや長介緒形拳みたいな役ができるといいのだけどね。
田村正和はかっこ良すぎちゃうのである。
かっこいい人にはそれなりの悩みや苦しみがあるのである。
私にはわからないけど。

もう一つ
先週のIOCとのリモート会議は大反響、大炎上だったね。
緊急事態だろうがやる。と言い切った。
バッハ会長「我々は犠牲を払わなければ」と言ったそうだ。
犠牲という言葉が好きな人と嫌いな人にはっきり分かれる。
日本人は基本的に嫌いなのである。
70年前までは大好きだったのだけど。
その後、高度成長期までは企業戦士とか言われて犠牲を求められた。
ただし、戦時中とは違って身分を保証されての犠牲である。
それでも、経済活動にはやはり違う場所で肉体的な犠牲が伴うことがわかってきた。
半沢直樹シリーズでも企業戦士たちは抗争に明け暮れているわけだが、その影で苦しむ中小企業が出てくる。
五輪でやろう、がんばろうという人たちも選手を含めていろいろ我慢や犠牲を払ったかもしれない。
それでも基本的に楽しいお祭りなので五輪自体に大きな犠牲は伴わない。
しかしながら、五輪ありきのコロナ対策に振り回された人は多い。
私らは我慢するだけで済んではいるが、廃業や倒産や首切りに追いやられた人も多いらしい。
悪いのはコロナ禍なのでだから誰が悪いとは言わないにしても「犠牲を払う」といわれれば「それは違うのではないか」と言いたくなってしまう。

ユーミンノーサイドの歌詞が浮かんでくる。
何をゴールに決めて何を犠牲にしたの
誰も知らず

人々がみんな立ち去っても私
ここにいるわ

ゆるやかな冬の日の黄昏に
彼はもう二度とかぐことのない風
深く吸った