知床ウトロ地区

BSで士幌線廃線跡という番組を見た。糠平湖などが出てきてちょっと懐かしかった。
ここからはおじさんの思い出話、聞く方は何も面白くない。スルーしてください。
昭和もあと数年という時代だった。18歳で免許をとってどうしても行きたかったのが北海道である。
本来ならバイクで、と行きたいところだったがそこまでの根性もない。
父親の360ccの軽自動車を借りて、今のゲートブリッジ近くにあった東京フェリー埠頭から北海道に海路で向かった。自動車での旅行はすべてを自動車で完結するため、炊事道具寝具即席麺水タンク鍋など車中泊で何日でも、という構えだった。
苫小牧からえりも、帯広、糠平湖、大雪、北見、阿寒、屈斜路、摩周湖根室、野付と走って5日目午後にウトロに到着、慣れない車中泊の連続でフラフラの状況だった。
当時は士幌から北見にかけて国道は砂利道だった。360の軽自動車、それも免許取り立てでは大変な道中だった。
知床も砂利道が多く車はホコリだらけ、人間も屈斜路湖近くで銭湯に入ったものの薄汚い状況だった。

ウトロの中心部、国道の駐車場に車を置いて港に向かって歩きはじめる。

当時はもっと狭い道のように感じたが、右側に木彫りの熊のお店が何件か。フラフラ歩いているとその店の中から「お兄さん、ちょっとよっていきなよ」と声をかけられる。数千円数万円する木彫りの熊など私には縁も興味もない。「お金ないんで」と断ると「いいから休んでいきなよ、お茶を入れるから」と、店の中を見るといかにも北海道というヒゲモジャの30か40のおっさんだった。
店の入口近くのテーブルで休ませてもらう、お茶も頂いた。「なんだか死にそうな感じで歩いていたから」と素性を聞かれた。「実は」と「単独で車中泊の旅をしているのだけど船も入れると6泊であちこち痛い」と説明した。相手「ホー」と聞いてくれた。
「○○ちゃん、この人をオロンコ岩に案内してあげてよ」と言うと奥から20歳前後の女性が。ここで夏休みだけアルバイトをしているそうだ。写真の左前にある大きな岩山の上までかわいい女子と歩くことに。まだ夕日にはちょっと早かったが雄大なけしきだった、と記憶している。
お店に帰って「本当にありがとうございました」と深々と頭を下げるとヒゲモジャは「君、今日泊まるところはあるのか」と聞くので「この先の国道の駐車場で野宿します」と答えると「うちの宿舎を使わせてあげるよ、布団も貸すし平らなところで寝られるぞ」「お金がないので」「バカだなあ、話を聞いている、お金なんていらないよ」「いいんですか?!」というわけで泊めてもらうことに決定。宿舎は西寄りの海岸近くにあるそう、地図を書いてもらった。「鍵は」ときくと「鍵なんてかかっていないよ」と笑われた。
お言葉に甘えて宿舎へ。空き地に車を駐めて宿舎に入る。平屋のほったて小屋。入口近くに広間があって奥には二段ベッドが並んでいた。従業員の寝床だろう。
近くの海岸で夕日を見て、持参の自炊キットでラーメンを食べて指定された布団を借りて広間の隅で就寝。寝ているときに何人かの足音が枕元を通る。「この人が店長が拾ったフーテンの若者か?!」などの声を夢の中で聞いたような。
野宿生活の朝は早い。特に北海道の東部は3時には明るくなって4時には日が昇る。
4時に起きると奥のベッドから寝息が聞こえる。布団を畳んで簡単な礼状を乗せて宿舎を出た。
車に乗り込む前にほったて小屋に最敬礼をして網走稚内に向けて出発したのだった。
40年も前の話、さらに一度きりの一期一会ではあるが、今でも鮮明に覚えている思い出である。

そしてこのときの経験や感動がこの後の私の人生に与えた影響は大きい。後輩や教え子に親身に接することを実行した。今でも何十年も前の後輩や教え子と古い友人のようにしている。