表現の自由

名古屋の美術館で慰安婦の像などの特別展が3日で展示中止したとのこと。
理由が脅迫であるとのこと。
出る杭は打たれる、のとおりになった格好だ。
カマスコミは慰安婦像ばかりを取り上げて、肝心の企画についてはノーコメント。
ようやく『表現の不自由展』という言葉を見つけた。
この名称を見る限り、あえてひと悶着ありそうなものを展示していたと思われる。
私はバカマスコミが振りかざす『表現の自由』を鵜呑みにはしていない。
表現しないほうがいいこともたくさんある。
最近では京アニ火災の被害者の名前をヅラヅラ並べることをしなくなった。
表現しないほうがいいことだ。
だからといって、気に入らない韓国のものが展示されているから
だからクレームの電話をする、というのもいただけない。
どころか一種の妨害行為だ。
自分の好き嫌いをいちいち知らない相手にぶつけるという風習はいかがなものか。
例え火をつけてやるなどの脅迫でなくても、電話して気に入らないというのは
言葉の暴力ではないのか。
私は韓国人の無礼な言動には抗議したい一人ではあるが
だから韓国をすべて否定しようとは思っていないし、抗議行動もここでつぶやく程度だ。
他国の国旗を破いたり燃やしたりという野蛮なことはしようとも思わない。
もう一つ
21年前の和歌山カレー事件の死刑囚の息子がSNSを開設したとのこと。
どんなにつらい思いをしてきたか想像に難しくない。
私の近くにいたとすれば、いじめないにしてもお近づきになりたくはない。
まして、小中学生だったなら、と考えると自分もいじめる側になったかもしれない。
社会人になったとしても、さらにつらい思いをしてきたという。
息子は何も悪いことをしていないのに。
というわけで、彼が活動をしようとするといつものクレーマーが
「被害者遺族のことも考えろ」などとひどいことを言うらしい。
彼なりの『表現の自由』である。
彼の手記は東野圭吾作品のような出口の見えない辛いものだと思う。
それを最初から「けしからん」と蹴っ飛ばすというのはいかがなものか。
ほんの少しだけ『表現の自由』を与えてあげてもいいと思った。