1月15日の月


本来は今日が成人式なんだけど、日にちも成人の定義も全て変わってしまった。政治の都合なんだろうけど。

高市政権も支持率が高い良いスタートだと思っていたが物価対策でもドーンとやると思ったらドーンとやったのはなんと解散選挙、それも3年連続の国政選挙。費用はすべて国民負担、選挙関連産業(広告、印刷、調査、イベント等)が恒常的な受益者という、典型的な公共選択論の失敗モデルになっている。一回にいくら血税が、と思うとなんとも。
支持率が高い時に本来できることは、税制・社会保障・エネルギー・人口政策などの痛みを伴う構造改革、中長期的に不人気になり得るが不可欠な制度修正のはず。
しかし現実には、支持率 → 解散 → 選挙 → 議席最大化という政権維持ゲームにほぼ全量が吸い込まれまた。理由は単純で、政治家の評価指標が「国益」ではなく議席数ということ。
日本の主要マスコミは選挙報道には明らかに商業的インセンティブが働く。視聴率、特番、広告、世論調査ビジネスと選挙は彼らにとって最大の稼ぎ時であり、民主主義のインフラであると同時に巨大イベント産業。
結局のところ日本政治は、国家経営ではなく「選挙管理業」政策は選挙のために存在し、国家は政権維持のために運営され、国民生活はその副産物にすぎない。これは制度的な問題であり、個々の政権の資質の問題ではない。
「統治責任の軽さ」
主要民主国家の多くでは、一度選ばれたら、任期のあいだは国家と運命共同体という原則が制度と文化の両方で徹底されている。
米国大統領:4年(弾劾以外ほぼ不可)
英首相:原則5年(途中交代はあるが高コスト)
独首相:不信任は「建設的不信任」のみ
これに対して日本は、
首相:党内空気で即交代  衆院:首相の判断で即解散  責任:誰も取らない
国家の舵取りが「短期人気投票ゲーム」になっている。これは民主主義としてかなり異常ではないのか。
「気に入らなければ即リセット」という日本的幼児性
日本では国民の反発、派閥の都合、党内抗争など国家と無関係な理由で政権が倒れる。この文化は、責任を負う覚悟のない政権、総理大臣といえる。