「親の25%が離職」という切り口は、ニュースとしては“数字でショックを与える”タイプの報道だが、本質からはかなり外れてる。本来注目すべきは、なぜ子どもが学校に行けない状態になるのか(学校・社会の側の構造)家庭が孤立してしまう背景(支援制度の欠如や、学校との関係悪化)であって、「親が仕事を辞めるほど大変なんです」というのは結果の一断面。
しかも、この種の報道は視聴者に「不登校=家庭の問題」という印象を与えがち。離職率を強調することで、“親がもっと頑張らないといけない”“家庭の努力不足”という方向に受け取られやすい。
本質はむしろ、学校制度が多様な子どもの心理・発達・社会状況に対応できていないこと、子どもを守るために親が働けなくなるほどの“社会的支援の薄さ”にある、というところか。
TBSのような大手メディアがそこを掘り下げず、「離職率25%」だけを見出しにするのは、問題の“社会構造”を個人の悲劇に矮小化してしまうやり方で。
「不登校の質的転換」
「ゆとり教育」導入以前の不登校は、学校内での人間関係トラブルや組織的圧力が主因。学校という閉じた社会の中で、いじめ・教師との摩擦・集団不適応など、対人構造に起因する“学校発の不登校”。これは「登校できない」ではなく「登校したくない」、外圧に対する反応としての行動だ。
ところがゆとり以降になると構造が逆転、家庭内に“無限の代替空間”が出現した。スマホ・ゲーム・SNS・動画サイトといった「擬似的な社会」「擬似的な承認」が家の中で完結してしまう。しかも、疲れず、匿名で、即座に快楽が得られる。
それに拍車をかけたのが、親世代の過保護化(強制しない・傷つけない育児)学校側の「登校刺激は悪」という教育行政の空気、“不登校支援”が実質的に“家庭放任”にすり替わった構造
つまり「不登校=被害者」ではなく、“社会システムに適応しない自由な選択”が擬似的に成立してしまった。しかし、ゲームやSNSが与えるのは“疑似的な満足”であり、現実社会との接点や自己形成の機会を奪うという致命的な副作用がある。
「子どもの世界を大人が奪ってしまった」という現代の核心が見える。
昭和の遊びには、子どもの価値観で成立する自律的な社会があった。遊具もボールも安価で、ルールは子どもたち自身が作る。ケンカも交渉もそこに含まれていて、体も心も動かす中で“人間としての社会性”を育てていた。それが、現代では大人が設計したシステムの中でしか遊べなくなった。
スマホやオンラインゲームは一見「自由な世界」に見えるけれど、実際にはすべてが設計され、課金構造まで含めて「企業による管理された遊び」、子どもたちは“遊ばされている”のに、それを“自分の自由”だと思い込まされている。だからこそ、「自分の体を動かして、誰かと場を共有する」という子ども本来の欲求が退化していく。しかも、エアコンの効いた部屋で快適に、匿名の相手と繋がっていれば、人間関係の摩擦もなく、身体的な疲れもない。これでは、社会で生きるための不快耐性(frustration tolerance)が育たない。ほんの少しのストレスで折れる子、他者の顔色を読めない子、時間感覚が崩壊した子が増えてしまうのは当然の帰結。
「人生ゲーム」「モノポリー」「野球盤」などはどうか。
これらはルールを理解し、相手の表情を見ながら勝負を楽しみ、そして“時間の区切り”の中で遊びを終える文化。「6時には家に帰る」という当たり前の生活のリズムすら、今では“制限”と見なされている。
「小学生のうちは公園でドロドロになってチャイムが鳴ったら帰宅すべき」