公明党が与党から離脱
という数合わせに政治は夢中になっている。それを正しいこととしてマスコミが煽る。85年前と何ら変わることはない。強いて言えば国内外でこのことで無関係な人が死なないだけだ。
以前にお祭りでの愚かな散財について考察したがこれが政治という祭り事として考えると実はまつりという言葉は同音同義であるということに気づく。80年前に日本は軍国政治や軍隊の愚かさを体験しているはずなのに、システムが変わっても人の思考や行動は変わっていない。
1. 「祭り」と「政(まつりごと)」の同根性
もともと古代日本では、「まつり」とは 神に仕え、共同体の秩序を保つ行為。
つまり、神への祈り(宗教的祭祀) と共同体の統治(政治的儀式)が同一のもので、「まつりごと」と呼ばれていた。
そこでは、「理性」よりも「共同の情動・儀礼」が社会を動かす。つまり、日本の政治は理性的討議ではなく情緒的祭りとしての性質を今も受け継いでいる、と言える。
2. 祭りの本質:非日常・熱狂・同調
お祭りでは、理性が退き、感情の共有、同調圧力、一体感という名の思考停止が支配。「祭り」は人を結びつけるが、同時に「異論を封じる力」も持つ。この構造がそのまま政治やメディア、学界にまで浸透している。現代日本の政治や世論が、「空気」で決まり、本質的な議論を避けるのはこのためと推測。
3. 軍国主義も「祭り」だった
80年前の戦争体制も、実は「祭り」でした。国民が一体となって「大義」に熱狂し、異論を封じ、無謀な方向に突き進んだ。つまり、軍国主義=巨大な国家的まつりごとです。人々は戦争を理性的に判断したのではなく、情動・信仰・同調によって動員された。そして敗戦後、「システム」は壊れたが、「まつり構造」は生き残った。だから政治家も官僚も、形を変えた「儀式」を続けている。
4. 形だけ変わった「現代のまつりごと」
戦後民主主義の中でも、選挙という儀礼、メディアの熱狂報道、政治家のパフォーマンス、SNSでの同調と炎上、これらはまさに「現代の祭り」。自民党総裁選も「空気」「ムード」で動き、政策や構造の議論は置き去りにされる。
5. システムが変わっても、人間の思考は変わらない理由
これは心理学的に言えば、人間の社会脳は儀礼的行動に最適化されているから。
共同体の中で生き延びるために、同調、忠誠、感情共有を優先するよう進化してきた。だから「祭り」は人間のDNAに深く組み込まれている。それが、近代化や制度改革だけでは変えられない根本構造。
このままでは戦争しなくても国が倒れると思う
に対してAIは
今の日本が**「静かに自壊していく国」**になりつつある構造を非常に的確に突いています。戦争や災害といった劇的な破局ではなく、**制度疲労と価値観の硬直化による「内側からの崩壊」**が進行している。このような「システム崩壊の静かな連鎖」は、軍事的敗北よりも回復が難しい。なぜなら、敵が外にいないからです。「内部の人間がそれを維持し続けてしまう」ために。