観光船と運命

毎日のように沈没した観光船のニュース。
遺族の鎮痛な気持ち、叩けばいくらでもホコリが出る会社、懸命な調査捜索の海保や海自や漁船。遺族や国民の怒りは観光船の会社に向けられる。信じられない許せないという事実ばかりなんだけど、いくら彼らを叩いたとしても死んだ人が生き返ることはない。こんな形でオホーツクの海に沈む死に方など運命を感じてしまうのである。こんなところでの突然の死に納得している人などいないだろうが神様の思召としか考えられない。
私は40歳の時に医師から「ステージ3」と言われた経験がある。5年後の生存率が50%以下というのである。頭の中は真っ白になった。帰宅したときも食事のときも布団に入ったときも「はー」とため息ばかり。手術の日程が決まった頃には少し気持ちが変わっていた。「運命」の二文字が頭の中をぐるぐる回っていた。人の命は永遠ではない、いつか死ぬのである。昭和初期までは「いつか死ぬ」という考えが周りにいつもあった。人の命は儚いとわかっていた。昭和中期はとりあえず兵隊に殺されるという恐怖はなくなったが、大きな鉄道事故や飛行機事故や交通戦争など人の死はそれなりに身近にあった。がんや脳梗塞などは不治の病だった。昭和後期の浮かれた時代にさしかかるころから、「死なない」という根拠のない希望なのか自信が芽生えた。医療も進歩しているわけで、全くの過信でもない。
でもね、やっぱりみんながみんな85歳までのんびり生きられるわけではない。平均が80歳になるように神様がいつ死ぬかを割り振っているのだ。「Destiny」を受け入れることも必要なんだ。
一つだけ、Destinyに対抗する手段はある。
病気に対しては、検査をしっかりすること。医師の指導に従うこと。健康に対して敬意をもつこと。医療費をケチらないこと。
事故に対しては、危ないことはしない、冒険はしない、ということだ。知床に行ってクマを見るというのは観光という名の冒険旅行なんだ。普通の人は行けない場所だからね。エベレストに登るのと同等の危険性がある。(遭難する可能性ということ) エベレストの方がはるかに危険に感じるが5000m以上にいる人達はその道のプロが大半だ。スキルがあるからリスクが減る。芦ノ湖や松島の観光船なら危険度も低いだろうが知床は外洋に出るわけで、あの小さな観光船で波が高い外洋に出るというのは普通に考えれば大変なリスクである。悪質な業者がからんで「死」の運命を手繰り寄せてしまったのか。