京浜「パタパタ」引退を惜しむ声

京浜急行電鉄が、京急川崎駅にある同社路線最後の「フラップ式列車発車案内表示装置」(通称パタパタ)を2月中旬に廃止すると発表したことを受け、ネット上では鉄道ファンを中心に“引退”を惜しむ声が殺到している。
というニュース。

食いついたのはこの記事の表題、京浜パタパタ、である。今どき「京浜」と言うかな。大抵は京急だろうに。
先程のTVニュースでも取り上げていた。
廃止理由に保守の継続が難しい、これはわかる。さらに「中国語や韓国語が」というのがあった。
京急川崎のホームで中国人や韓国人の需要がどれだけあるのか。
日本のインバウンドへの過剰と思われるおもてなしの心、逆に大半の日本人はハングル文字で表示されてもわからない。我々は日本語になるまで待たなければならない。今、ここにいない韓国人のために待たされることに苛立つ。
コロナのせいで今そこにいない中国人や韓国人のために取り外すというのは納得できないよなあ。

千葉県は「オミクロン株」の感染疑いがあった県内90代の女性1人が死亡したと発表した。
という重大??ニュース。
記事では90代以上と書かれていた。たしかにコロナの死亡は困ったことだが90代では普通の風邪でもぽっくりいっちゃうだろうに。それを新型コロナだからと大々的に報道するのはいかがなものか。裏を返せばオミクロンはそれだけ死なない、重症化しないということなんだろうけど。
90代のババアが病気で死ぬのはニュースではない、寿命なんだけどね。それも90代なら天寿を全うしたということだ。別れは悲しいがおめでたいことでもある。元気に生きてぽっくり死ぬ。これこそが本人にも家族にも良いことなんだが「死」という言葉だけですべて悪いこととされるのはいかがなものか。
私も初老からもうすぐすると老人のカテゴリーになる。「死」は他人事ではない。私は40歳で「死」を意識する大病をした。腹が痛くなっても発熱しても「死」を意識するようになった。大病はなんとか大手術で切り抜けたが老いによる「死」は意識しなければならない。
コロナによる事情で自殺者が増えているときくが、いつも「死」の恐怖におののいている私には理解できない。死ぬ勇気があるのならできることはたくさんあるだろうに。