世良公則が矢野事務次官の“バラマキ批判”を疑問視

反対の反対は賛成なのだ、という昔の漫画の文句を思い出した。
財政が逼迫しているのにさらなるバラマキの財政出動は必要なのか、というごくごく当たり前の提言なのだが批判が相次いでいる。
昨日もここで書いたことだが、コロナによる多額の財政出動だったのだけど、実は税収も上がっているというのが肝だね。つまり財政出動は結局プラスになるという前例を作ってしまった。さらにぽんと10万円もらうとありがたいと選挙で一票という人が多いということなのか。
まあどちらかと言えば財務省側が正論、ばらまいて経済をと言う方がちょっと?という感じだな。
もう一つ、
これも何度もここで書いていることだが、格差のない社会という理想論、働かざる者食うべからずという論理の逆である。一種の共産主義ではないかね。みんな平等、みんなが中くらいの生活というのはとても危険な発想である。大戦前後のソビエト共産主義で経済成長したとあるが、いにそぐわない人たち数百万人を粛清したとある。みんなというのは全員ではないということだ。
今の中国も共産主義でスタートしたが、毛沢東後期ではやはり粛清が行われた。今の中国の発展は自由経済を取り入れて経済成長を促進し格差を大きくしたところにある。
もう一つ
格差を跳ね返すのを原動力として成功した人は多い。金持ちになりたいという夢は自由経済では大切なことだ。どんなに頑張っても頑張っていない人たちや障害がある人と同じ収入ではモチベーションが保てない。
月曜日のドラマのラジエーションハウス、今日のニュースで12歳のスケートのまおちゃん、どちらも小学生から夢を追いかけているとあるが、果たして6歳や8歳の子供が陸上競技やスケートでトップになろうなどという夢を見られるものか。ドラマでは子供の夢ではなくて親の夢だという話、多分リアルのスケートのまおちゃんも似たようなものだろう。
たとえ五輪でメダルを取れたとしてもその栄光でお金をもらえるのはほんの数人という世界だ。残りの99%の選手たちは6歳の頃からの夢と努力も虚しく生きていると思われる。この格差があるからこその競技であり努力なのである。格差がなければ何も残らない。
頼むから格差のない社会などと中身のないことを責任のある人が言わないでくれ。