芥川賞の火花に手放しで喜ぶ人たちに対して物申す人がいるそうだ。
どちらかと言えば話題性が先行してしまったということだろう。
ネットニュースを見ると
芥川賞も、一般的には「純文学の最高峰に与えられる賞」と評価されているものの、
実際には文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われて授与される賞。
「要するに、とある私企業がやってる出版販促プロモーション策である」
とある。
文学とか純文学とか言うけど、大江健三郎みたいに難解なものだから文学とはならない。
実際、夏目も芥川も新聞の連載である。
もともとは大衆受けするものを文学としたわけで。
そもそも、○○賞などというものは99%販促目的である。
早い話が金儲けのための手段なんだよね。
だから、金儲けにならない○○賞はたいていが文科省や教育委員会などの子供向けのもの。
全国であるわけだがカネの匂いがしない夏休みの自由研究などマスコミは取り上げやしない。
悪く言えば、カネにならないどころか無駄に税金を食いつぶし
選考している人たちの出世と保身のための○○賞なんだな。
そう考えれば、ある程度のクオリティがあれば話題性がある火花はものすごく妥当である。
そもそも、芸術作品を評価して順位をつけるということは疑問だ。
子供の書写教室なら上手い下手で順位もつけられるが
ある程度のクオリティのある絵画や焼き物などに順位をつけることができるのか。
結局、選考する人たちの主観とカネの匂いが基準となる。
書店店員の投票による本屋大賞の方がまだ健全なのか。
私は殺人事件を文学まで引き上げた横溝正史好きだ。
テレビドラマの映像と文学の垣根を取っ払った東野圭吾を支持している。