夕刻のニュースで理研の小保方論文に対する審査結果が報道された。
基本的に全否定するものだ。
ところが、小保方は正当性を主張しているという。
実はこの『主張している』というところが曖昧。
本人なのか、代理人なのか、共同研究者なのか。
本人という話もあるが、果たして会見を開いて主張することができるのか。
会見を開けばマスコミの追求を受けることになる。
普通の人間ならこの状況でマスコミの前に出ることなどできるわけがないし、
実際、閉じこもりになっているとの報道もある。
どう考えても、開き直ってマスコミの前に出ることは分が悪い。
一縷の望みを考えれば、どんな場面で偶然にもその細胞が見られたか、を弁明することか。
つまり、大発見をしたのだけどその正体がわからない、
というのが落とし所と推察する。
もう一つ
以前にもここで書いたが、私が論文を書いた時、上司が「新しい発見がない」という。
研究の結果、『こんな発見をした。』というものでなければ論文とは言い難いという。
でもね、そんなに簡単に発見などできるわけがないし。
さらに、論文を審査するのが、当然上司の延長線上にある人。
分野が決まれば審査の基準も決まってしまう。
そう考えると、小保方はその延長線上にある論文を書いてきたわけだ。
たかが20代の修士課程での博士論文、ここまで進化している科学でそう簡単に発見はないだろうし。
それでも論文を書かなければならないわけで。
小保方を否定すれば世の中の博士論文、だけでなく大学の卒業論文だって
ほとんど否定されてしまう事態になりかねない。
もう一つ
私の尊敬する科学者、ドイツのウェゲナー。
20世紀初頭に大陸移動説を唱えるも学会で全否定され、証明できないまま彼は死亡する。
ところが、その50年後には大陸移動説は教科書にも書かれるようになる。
同時期、メンデルは画期的な遺伝の法則を発表するが学会には認められず
死後にメンデルの法則の再発見という形で認められ、今では遺伝の基礎として教科書に書かれる。
科学の進歩とは大半がそんなもので、大発見なんていうのは実は後世の人が決めたもの。
たとえ、論文の不正があったにせよ小保方をアホのマスコミが安易に追求することは
科学の進歩に対しては決して望ましいものではない。