横澤彪氏死去

私たちの世代はザ漫才とかひょうきん族とかを熱狂的に見ていた世代。
当然、横澤彪の読みにくい名前も耳に入ってきていた。
私たち世代には神のような存在。
彼のセンス、眼力が時代やテレビに受け入れらた。
そして、今のバラエティの基礎を作った。
それまではクレイジーやドリフの作りこまれたギャグが中心だった。
ところが横澤彪は若手芸人のアドリブ、勘を尊重した。
それがたとえグダグダになってもよしとした。
ひょうきん族」から「笑っていいとも」とよく書かれているが
その隙間に「笑ってる場合ですよ!」がある。
ひょうきん族の姉妹番組として平日昼に放送された。
司会はザ漫才の人気者が日替わりで担当。
この時売り出し中の「東京乾電池」を起用したのが大きい。
漫才ブームが下火になったところで番組をイメチェン、
売り出し中のタモリを司会者にした「笑っていいとも」がスタートしたのだった。
90年代に入ると横澤流のやり方にフジの制作とぶつかるようになる。
そしていいともの時間配分をめぐって衝突して横澤はプロデューサーを下ろされて閑職に。
それに反発してフジを退社したと記憶している。