野口英世の苦悩と光学顕微鏡

私が子供の頃に読書といえば野口英世の伝記を読むことだった。
ものすごくポピュラーな伝記であった。
伝記では彼の努力と偉業をたたえているが実際は…。
彼は幼児期の大やけどによって障害者となった。
それでこどものころはたいそういじめられたらしい。
それをはねのけて勉強をして、カンパなどで手術をうける。
それがきっかけで彼は医学の道へ。
ケロイドの残る手での臨床は無理と思ってか研究の道へ進む。
彼が生きた時代はコッホや北里の大発見の後であった。
光学顕微鏡で発見されるべき細菌はある程度発見されたあとであった。
彼は当時アフリカで流行した黄熱病の病原体を求めてアフリカにわたり
発見出来ないまま黄熱病に感染して死亡してしまう。
彼は最期に「どうも私には分からない」と言ったのは有名である。
野口英世が追い求めた黄熱病の病原体は残念なことに物理的に発見することは不可能。
なぜならそれは彼の専門の細菌ではなくさらに小さいウィルスだったからである。
ウイルスの大きさは20〜970nm(ナノメートル:1mmの100万分の1)であり、
細菌の大きさの1〜5μm(マイクロメートル:mmの1000分の1)より小さいことがわかる。
ほとんどウイルスは300nm以下と非常に小さく、光学顕微鏡では決して見ることは出来ない。
100nmは0.1μm、すなわち0.0001mmである。
光学顕微鏡の性能を遥かに上回る電子顕微鏡の開発はドイツ人のルスカによって1931年に
開発されている。
ルスカは開発した電子顕微鏡で最初に見たいと思っていたのはウィルスであった。
野口英世が死んでからわずか数年のことであった。